母亡き後 一人暮らしの父が突然、脳梗塞で倒れ左半身が不自由になった。
医師からは退院してもいいが一人暮らしは無理と宣告された。
明治生まれの父は、万一の時には長男が看てくれるものと考えていたようだが、父の想いは通じていなかった。誰かが看なければ退院のめどが立たず、六人兄姉の五番目の私がとり合えず看る事で退院出来た。
当時高槻市に住んでいたので、父にすればすごくとまどいがあったと思う。「お前には申し訳ない」と口に出して言っていた。私は、家族に協力をお願いしてスタートした。
その頃、息子二人は中学生、娘は二才半だった。三人ともおじいちゃんが大好きで、末娘は、「何でも言ってね、助けてあげるから」と一人前に助けるつもりでいた。父の言うまま、手となり足となって父のお手伝いを喜んでしていた。息子たちは、話し相手に付き合ってくれた。リハビリの散歩にも付き添ったし、病院にも付いてくれた。
どんな時も、父の意向を聴いてから行動する様に決めていたが、時々、予定になっかた事を急に行動しようとすると必ず「心の準備が出来てないから」と拒否。どんな些細なことでも前もって伝え、協力をお願いする様にした。介護に当たっては、受ける側と介護者双方の同意があってこそ楽に進むと実感した。今頃は、充分な説明と同意が大切と言われるがその通りである。
25年位以前はまだ、延命治療を断る患者は、少なかったと思う。点滴の管をハサミで切断したり、点滴の針を抜いてベッドに刺してベッドが水浸しになった。父の決心は固く、「こんな体で生きて、誰が倖せになるのか」と治療を拒否した。「そんな風に生きている姿から、私達に多くの学びがあると思う。」と父に伝えた。実際困った時程、工夫や知恵を出し合い、あきらめずに頑張った。毎日が実験みたいで楽しかった。6年半の介護は実りの多い時期となった。
Comments